なまずの尾っぽ(+) :富山・北陸の旧街道と郷土史的な何か

富山県内と北陸各地の旧街道を歩いた記録とその風景の魅力を発信していきます。

富山藩=富山県ではないし、富山藩は真ん中だけで西も東も加賀藩だった、という話

意外と富山県民にもそんなに知られていないのかもしれません。

高岡をはじめ県西部は加賀藩という認識は比較的広くあるかもしれませんが、

魚津も黒部もかつては加賀藩領でした。

 

-え?じゃ富山藩て?

 

地図を見ればすぐわかるので添付します。

(他に良いのが見つからないので、富山市郷土博物館のサイト「博物館だより」から拝借します。以下の地図等はすべて同サイトからの借用です)

 

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こんな感じの領域です。

 (富山市郷土博物館「博物館だより」第二十三号より)

 

現在の富山県(=越中国)の真ん中だけです。

 

 

ざっくり富山藩成立史

 前田利家・利長父子は2代をかけて能登、加賀、越中の三国を掌握します。

利長は関ヶ原の戦いの後に加賀全土を加増され、約120万石の最大の外様大名となります。(当時の国別石高は、能登約21万石、加賀約44万石、越中約53万石だったと上記リンク先サイトにあります)

次の利常の代にはこのうち、越中富山藩10万石、加賀大聖寺藩7万石が分藩されます。

寛永16年(1639年)のことです。以後、幕末まで加賀藩、富山藩、大聖寺藩という前田家の三藩体制となります。

 

 

富山藩って、“真ん中”だけだよ

 

その富山藩の領地です。

越中は昔から、射水郡、砺波郡、婦負郡、新川郡に分かれていましたが、富山藩はそのうち婦負郡全部と新川郡の一部が領地でした。

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富山市郷土博物館「博物館だより」第七号より拝借)

 もっと詳しく言えば、婦負郡全域180村と新川郡のうち64村です。

 

政庁 は富山城、歴代藩主の墓地は長岡の御廟、

大きな港は四方(西岩瀬)だけで、対岸の岩瀬(東岩瀬)は加賀藩領でした。

一番大きな町は唯一の城下町である富山町で、あとは八尾町(越中おわら風の盆で有名な坂の町、養蚕業で栄えた)くらいでしょうか。

新庄は比較的富山城下に近い大きな町ですが、ここもまた加賀藩領だったはずです。

※他にも「町」はあったかもしれないけど忘れた。

 

というわけで、富山藩は現在の富山県に当てはめると真ん中の一部だし、現在の富山市内でも富山藩領と加賀藩領に分かれます 。

富山県内の旧北陸街道を東西に貫いて歩くとき、こうした歴史背景を知っていると面白いしちょっと不思議な感じがします。

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魚津や黒部も加賀藩

 

戦国時代から城下町であった魚津の町は今も新川地区の中心地ですが、ここも江戸時代には加賀藩領でした。

一国一城で城こそありませんでしたが、加賀藩の奉行が治め城跡には藩の蔵や武器庫などが置かれたようです。

 

よく富山県の二大都市、富山市高岡市の文化的な違いや方言の違いを、富山藩と加賀藩の歴史に起因するような言説も聞きますが、それを言うなら富山市魚津市も…ってことになりませんかね。

あるのかもしれませんが、私が高岡方面の人間なので耳に入ってこないだけかもしれませんね。

 

視点を変えると、意外に富山県のうち富山市(旧婦負郡は平成の合併で全域が富山市に)だけがむしろ特殊、って事例もあったりするだろうなとふと思いました。

 

 

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